アンティークジュエリー物語n.55
画家で男爵夫人
タマラ・ド・レンピッカ

タマラ・ド・レンピッカをご存知でしょうか?
今回は、怒濤の20世紀を生き、世界を旅し、画家で男爵夫人、そして今またファッションや美術のインスピレーションになっている女性をご紹介致します。


タマラ・ド・レンピッカは1898年ポーランドのワルシャワ生まれ、シュラフタといわれるポーランドの上流階級に生まれますが、両親の離婚で祖母のいるロシアへ、そして1917年のロシア革命後は夫とともにパリへ亡命しました。
ここまではよくあるロシア貴族たちの亡命物語ですが、このあとが普通ではありません。

タマラ夫妻は最初は宝石などを売りながらパリで生活をしていましたが、上流階級然とした夫の生活力のなさから、自らが画家となってパリで生きることを決め、画学校へ通います。

フルーツボウル 1949年

その後、パリ画壇の寵児となりました。
有名なギャラリーでの個展開催や、流行の最先端を身につけた自分の写真をヴォーグなどのモード誌に掲載することで、パリ社交界の、いわゆるスターになっていきます。
時は1920年代、

秘密の分かち合い 1928年 個人コレクション

” 狂乱 の ” といわれたアール・デコの時代で、芸術の中に新しい風が吹き始めました。
カルティエ、ショーメ、ブシュロンなどのパリのジュエラー達も、幾何学デザインや、アフリカやオセアニアの美術、インドやオリエンタルからインスピレーションを受けた作品を作り出していきます。

タマラ・ド・レンピッカ 幼少時代の写真

タマラはパリの画壇で、ピカソ、ブラック、ジャン・コクトーなどと社交界ではヨーロッパ貴族達と知り合い、彼らのポートレートを描きました。
当時のモダニティであったスポーツカー、ファッション、ジュエリーを、明るく鮮明な色とはっきりとした輪郭線で描き、それまでの印象派から脱皮した新しい時代を表したのです。

パリのアトリエ 1923年 / 緑色のブガッティに乗る自画像 1929年

タマラは一人娘のキゼット・ド・レンピッカも描きました。
母そっくりの金髪の美しい子供でした。

キゼットとタマラ / バルコニーのキゼット 1927年 パリ ポンピドー現代美術館

タマラ自身はもともとポーランドの上流階級出身でしたが、パリへの亡命で画家というボヘミアン的なその日暮らしでした。

しかし1933年に知り合ったクフナー男爵と結婚し、アメリカへ渡ります。
アメリカでは「男爵夫人で画家」というタイトルで華々しく受け入れられ、彼女が船でフランスから着いた時には、波止場に沢山のカメラマンや記者達が溢れていたそうです。


タマラの描く絵は、そのままモードの世界にインスピレーションを与えました。
タマラ風のファッション、帽子、ジュエリー・・・アメリカでは大変な人気になります。

タマラの絵と帽子を被ったマレーネ・デードリッヒ

時は「シュールレアリスム」という美術技法が流行します。
シュールレアリスムとは、現実とはかけはなれた夢のような幻想的なイメージを表す美術で、ダリやピカソが有名です。

最も優れたデザインを生み出したジュエラーのカルティエやブシュロンもタマラから影響を受け、オニキスやダイヤモンド、珊瑚を使ったジュエリーの、非現実的な夢の世界を表現した写真を生み出しました。


自身もお洒落で、モード紙の表紙を飾ったりしたタマラ、ジュエリーや帽子のコレクションもしています。


タマラのお気に入りのジュエラーはカルティエを筆頭に、フランスのジュエリーで、大胆な石使いやプラチナに18金製のジオメトリックなデザインでした。
1920年代のアール・デコから、1930年代から1940年代へ、モダニズムの先駆けのただ中にいたタマラでしたが、

静物 1950年 / 座るタマラ・ド・レンピッカ 1928~1929年

戦後は画風が流行ではなくなったため、しばらく忘れられていました。
しかし1970年代にはいると若い世代が彼女の先進性や大胆で鮮やかな絵の美しさ、絵の中にある不可思議な感覚などを好み、再び脚光を浴び、世界各地で回顧展が開かれました。

アフロディーテの彫像の前のタマラ/燭台を持つタマラ 1948~1949年

絵だけでなく写真の被写体として、不思議な世界をつくりだしたり、カルティエやブシュロンなどのジュエリーを着けこなし、モード誌へ登場していたタマラは、今また21世紀のファッション界で注目を浴びています。

タマラ・ド・レンピッカの持つモダニティは、カルティエやブシュロン、ショーメといったグランサンクの宝飾商達のジュエリーと同じく、いつの時代も受け継がれているスタイルの一つなのでしょう。

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