アンティークジュエリー物語n.74
悲劇の女王
メアリー・スチュアート 1
芸術や文学のインスピレーションになる歴史上の女性といえば、古代ギリシャ トロイ戦争のヘレナ、エジプトのクレオパトラ、フランスのマリーアントワネット王妃、イングランドのエリザベス女王、そしてスコットランドのメアリー女王ではないでしょうか。
このコラムでは、悲劇ゆえに愛される、メアリー女王とそのジュエリーについて、2回にわたりご紹介をいたします。
さて、400年を超えてなお、人の心を捉える波乱万丈の人生とは…?
今から500年前の1500年代のヨーロッパは、まだ現在のイギリス連合国はなく、南のイングランド王国、北のスコットランド王国と分かれていました。
メアリー・スチュアートは1542年生まれ、父はスコットランド国王ジャック5世、母はフランスのギーズ家の公女マリーです。
ギーズ家はフランス王家と親戚の、王になる可能性もある高貴な家系で、生まれながらにして王家の血を受け継いだうえ、生後6日で父の死によりスコットランド女王となりました。
メアリー0歳、スコットランド女王として、政治の道具として、運命の歯車が動き始めます。
まず、虎視坦々とスコットランドを狙っていたイングランドのヘンリー8世王は、メアリーを自分の息子と結婚させ、スコットランドを手中に治めようと考え、誕生の慶報を聞くと同時に、ロンドンから馬を走らせます。
しかし母マリーは拒否、メアリーを人知れぬ僧院へ移し養育、その後、5歳でフランス皇太子でカトリックのフランソワの婚約者として、自らの母国フランスへ渡らせます。
そこでメアリーは、あらゆる最高の教育を受けました。
当時のフランス宮廷は、中世の騎士道精神と、ルネサンス文化が融合し、ヨーロッパ宮廷の中で最も洗練されていたところです。
13歳で数カ国語を話し、ラテン語で演説を行い、馬術にかけては騎兵隊にも負けず、義父のフランス王アンリ2世は「こんな子供は見たことがない」と驚き、詩人や芸術家のミューズ(創造の源泉)となった独特の美しさを持っていました。
1558年、15歳でフランス王太子フランソワと結婚、翌年にフランス王アンリ2世が事故死し、16歳でフランス王妃兼スコットランド女王となり人生の絶頂期を迎えました。
しかし1560年に、結婚2年半で病弱だったフランソワ2世王とスコットランドにいた母マリーが相次いで亡くなります。
この時メアリー19歳、フランスは亡き夫の弟が継ぎ、継母カトリーヌ・ド ・メディシスが権力を握ったため、悲しみと共にスコットランドへ戻ることになります。
当時のスコットランドは王国とは名ばかりで、貴族は王権を狙っていがみ合い、カトリックとプロテスタントの対立があり、文化は100年以上遅れ、貧しく野蛮な国でした。
当時の文化大国フランスから戻ったメアリーは、その天と地ほどの差に落胆します。
その上、イングランドには従姉妹のエリザベスが女王として君臨し、スコットランドでは母の違う庶子の兄、マリ伯が実権を握っていたうえ、この後ずっとエリザベスに敵視される状況が待っています。
その理由は、メアリーの祖父はイングランド王ヘンリー7世だったので、イングランドの正統な継承権があること、そしてフランスにいた頃、義父のフランス国王アンリ2世が、「エリザベスは婚外子で、王位継承権は無く、メアリーこそがイングランドの王権を持っている。」と言い、メアリーの紋章へイングランドの紋章を組み入れましたし、メアリーも、イングランドの継承権を放棄しませんでした。
このことが最後に斬首される悲劇を生んだのですが…
さて、19歳で独身となったメアリーに、ヨーロッパ各国から縁談が舞い込みます。
23歳で自ら選んだのは、イングランドからやってきた親族の一人ダーンリ卿で、夫妻の間にはジェームズ1世が生まれました。
しかし1年も経たないうちに、見栄っ張りで弱い性格の夫に愛想を尽かし、軍隊長ボスウェル伯に惹かれ、二人は事故に見せかけダーンリ卿を殺害してしまいます。
ボスウェル伯は王冠に魅力を感じていただけでしたが、ぞっこんだったメアリーは、夫の死から3ヶ月も経たないうちに25歳で再婚します。
しかしこのことが夫殺害の疑惑を深め、全ヨーロッパ宮廷からは非難の嵐で、スコットランドでは貴族が内乱を起こします。
二人は城を逃げ出しましたが、メアリーは捕まり、ボスウェル伯はメアリーを捨てて逃亡、その後デンマークで捕らえられ10年後に牢獄で発狂死しました。
捕らえられたメアリーは、ロッホリーヴン城に幽閉、貴族たちに強要され、王権を息子ジェームスへ移すことを同意してしまいます。
1才の幼児がスコットランド王ジェームス6世として即位し、新教徒でメアリーの異母兄のマリ伯が摂政となりました。
しかし署名と心は違います。
メアリーは城を脱出、自ら馬に乗って100km近くを疾走し、近臣を集め蜂起しますが、結局負けてイングランドへ逃げ、従姉妹のエリザベスへ救助を乞いました。うわべだけでしたが「姉よ、妹よ」と手紙を出し合い、お互いに女王の地位にある間柄だったからです。
この時メアリー26歳、これが自由な人生の最後となったのです。
エリザベスは心情的には助けたかったのですが、政治的に、イングランドでのカトリックの復興や王権を脅かす可能性のあるメアリーを、喜んで迎えるわけにはいきませんでした。
しかし追い出して、カトリック国フランスやスペインへ逃れられ、ヨーロッパ大陸にスコットランドを取り込まれても困ります。
そこで、ロンドンから遠い城へ、半分客人、半分囚人として住まわせたのです。
これは事実上の幽閉で、18年間続きましたが、メアリーに財産は十分にあり、エリザベスから指定された城で、フランス風の宮廷を作り、宴や刺繍で優雅に過ごしていました。
しかし、スコットランドへ戻り女王として君臨したいという願望は変わらず、手助けを求める手紙をエリザベスに再三送りますが、のらりくらりとした返事しかきません。
エリザベスはなんとかしてメアリーを幽閉しておきたかったのですから、当然ですね。
メアリーはなんとか逃れようと、イングランド脱出と女王の地位奪回の機会を狙います。
当時、フランスではカトリックによるプロテスタントの大虐殺があり、イングランドでもカトリックが奮起し、イングランド国教会が脅かされる恐れがありました。
その中心になりがちなメアリーは、エリザベスの頭の上のタンコブで、そのコブは、日毎に大きくなっていったのです。
ある日、イングランド議会で「エリザベス女王に対する陰謀に参加した者は処刑する」という法律ができました。
イングランド宮廷はそれを利用し、メアリーを「エリザベス暗殺未遂」という罠にはめ、1586年に不公平な裁判にかけられ、斬首による死刑を言い渡されました。
執行には女王の署名が必要ですが、エリザベスは同じ地位の女王を殺すことを躊躇し、翌年の1587年になってやっと署名をしました。
メアリー44歳、
遺言を書き、用意した衣装に着替え、1587年2月8日に斬首にて処刑されました。
その時の衣装は、真紅の裏地の黒いベルベットのドレスに、真紅のアンダースカート、白のロングヴェール、黄金のシャトレーンを携えていたと伝わっています。
エリザベスはその後16年間生き、スペインの無敵艦隊を打ち破り、大英帝国の基礎を作りました。
1603年に子供の無かったエリザベスが死に、メアリーの息子のスコットランド王ジェームズ6世が、イングランド・スコットランド連合国の王ジェームズ1世として即位しました。
メアリーは死の数年前にラテン語で「 《 Virescit Vulnere Virtus 》 我が終わりに我が始まりあり」という文言と、火の中で甦る鳥フェニックスを刺繍に残していましたが(※参照 上のメアリーの刺繍作品)、自らは死んでも、息子ジェームズによって、自身の血がイングランドを引き継ぐことを知っていたのでしょう。
慎重で策略家、独身を通したエリザベスと、情熱的で華麗、愛に生きたメアリー、大きなスケールと強い個性を持った16世紀のふたりの女王は、今、ロンドンのウエストミンスター寺院に眠っています。
メアリーは、5歳から19歳まで過ごしたフランスでの黄金の日々を糧に、最後まで高貴な女王として生きたのです。
さて次回は、身長180cmという現代モデル並みのスタイルを生かしたメアリーのファッションやジュエリーをご紹介いたします。掲載後にニュースレター でお知らせをいたしますので、楽しみにお待ちください。