アンティークジュエリー物語n.76
聖なる怪物
コレット 1

マダム・コレットをご存知でしょうか。
コレットは、いろんな意味で非常に有名な、フランスでは知らない人がいない偉大な作家の一人で、時には「聖なる怪物」と呼ばれ、動物を愛し、たくさんの顔を持っていたベル・エポック期の快楽主義者です。

(コレットと愛猫サシャ - パレロワイヤルの書斎で)

さて、コレットが生きた「ベル・エポック期」とは?
それは、フランスの19世紀末から1910年代で、商工業が発達し、経済は繁栄を極め、世界中から富豪やアーティストがパリへ集まった華麗な時代のことを言います。( ※ 最下方も参照してください。 )

この頃の宝飾界では、パリのカルティエをはじめとするジュエラーが、高度な技術で新しいスタイルの作品を続々発表し、アメリカの富豪、インドのマハラジャ、ロシア皇帝、ヨーロッパ各国の王室など、世界中から注文が殺到しました。
当店でもベル・エポックならではの成熟した作品を、好んでご紹介しています。

19世紀から20世紀へ、価値観が大きく変わった時代でした。
ここでは、ベル・エポックのシンボルと言える「マダム・コレット」の波乱万丈の人生を、2回にわたってご紹介してまいります。

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1950年、コレットが逝去する4年前のある日、インタビューが始まりました。

「私はおしゃべりが好き、これから私の面白い一生をお話しするわ。でも、これが全てだとは思わないでね。」

子供時代

私は1873年1月28日、フランスワインの産地ブルゴーニュのサン・ソーヴェールで生まれました。
赤ん坊の時から欲張りだった私は、生まれたばかりの時にはもう、できるだけ長く生きたいと思ったものです。
母シドは私のことを「私の太陽ちゃん」「気まぐれやさん」「小猫ちゃん」と呼んで、とても可愛がってくれました。

(子供時代のコレット)

母から全てを教わりました。
良いこと悪いこと、なにが綺麗でそうでないか、どれが好きで嫌いか、美意識も良識も、自分で見て、知って、感じるのが大切ということも。
母はブルジョワ階級でしたが、知識が豊富で先進的で、ジョークが好きな変わった人でした。

(育ったサン・ソーヴェールの家)

こんなエピソードがあります。
日曜日ごとに母と教会へ行くと、毎回漫画のようなことが起こりました。動物を愛した母は、ある日は犬を連れて行き、司祭様へ大切な家族と紹介し、なんと最前列の椅子に座らせたのです。
ミサの間、音楽に合わせて犬は遠吠えし、皆が目を白黒させて、私たちのことを見ていました。
村人は母を変人と呼び、道を歩くとカーテンの陰で、女達が噂をしているのが見えたものです。

(家族写真 – 両親の間にコレットが座っている。/ 母シド)

実は私が生まれる前に、母は若くして最初の夫を亡くしたのですが、すぐに私の父、コレット大佐と再婚しました。当時は珍しかった恋愛結婚で、このことも村の女達の話の種になりました。
その頃は親の決めた相手と結婚するのが普通だったので、ふしだらでは?という訳です。今思うと、まったく暇な女達ですよね。

父は小説家に憧れていて、父が死んだ時、なんと12トンもの白い紙が残っていました。それを見た私は、将来は父の夢を叶えられたらと思いました。
なぜなら父は、私が小さな時からフランス語の高等教育を与えてくれ、そのおかげで私は 完璧なフランス語が書けたのですから。

最初の別れ

非常に裕福というわけではなかったけれど、両親に愛されて、自然の豊かなフランスの田舎で大きくなり、いつも犬と猫に囲まれていました。
「大人になったら、人間じゃなくて、とっても大きな猫と結婚したいわ。」
これが私の夢でした。

(動物とコレット)

猛獣も怖くありません。動物園では、私がオリの前に立つと、ライオンや豹が大人しくなり、お腹を見せて、喉をゴロゴロと言わせて擦り寄ってきました。
太陽、森、川、鳥、犬、猫、植物と四季の移り変わりの中で、一日中遊んだものです。まるで大地の女王のようでした。

そんな幸せな子供時代も、父の破産で終わりました。
私は18歳、家財道具をはじめ、絵本までも、全て競売にかけられたのを見たあと、親しんだ家を離れました。経済的に苦しい時代でした。

最初の出会い

ある日、一人の男性と出会います。
名前はムッシュ・ウィリー、パリのジャーナリストで、15歳離れていましたが、出会ってすぐにプロポーズされました。

(ウィリー33歳、コレット18歳)

今思えばなんて愚かな選択をしたのかと思うのですが… 若かったのです。
ウィリーは優しくて、女性の扱いがうまく、自由をくれたので、私は愛があると思っていました。
20歳でパリへ行き、ウィリーの小さなアパルトマンで、楽しい新婚生活を送りましたが、その楽しさは、遊び人ウィリーのためで、私には儚く終わるものでした。

新婚早々、
「マダム、ウィリーは浮気をしています!」
という匿名の手紙が届きました。

人生で最初の苦さを味わい、
落ち込んで、もう死んでしまおうかと何度も考えました。
でも本来楽天家であった私は、ウィリーの社交性を利用して、友人たちと楽しむ方へ考えを変えたのです。

「ウィリーが浮気をする? それで結構! 私は人生を楽しむわ!」

華やかなカップルとして

時は1900年、私は27歳、ベル・エポックと言われた華やかなパリで、流行のドレスに着替え、ウィリーと社交界へ。
私たちは瞬く間にパリで一番ディナーへ招待したいカップルになっていきます。

そこで知り合ったのは、ダンサーのベル・ペロー、
王様やスルタンを虜にした、いわゆる「クルチザンヌ  – 高級娼婦」でした。

当時、田舎から出てきた貧しい女の子は、食べるために、ダンサー、娼婦、歌手、女優になって生きていたのです。今も人気のあるデザイナー、シャネルもその一人でした。
生まれ持った美しさに加え、教養を磨き、王侯貴族や富裕な男性たちの援助を受けて、貴婦人並の暮らしをした伝説のクルチザンヌもいました。
センスも良く、王妃や貴婦人までもが、彼女たちのスタイルを真似たものです。

(パリのキャバレー「ムーランルージュ」とクルチザンヌ)

他には作家のポール・ヴァレリーやジュール・ルナール、音楽家のクロード・ドビュッシー、そしてマルセル・プルースト。のちに「失われた時を求めて」を書いたフランスの偉大な作家です。
マルセルは、陰気で、人をじっと見つめる癖があり、手にじっとりとキスをする人でした。

書くことと裏切り

華やかなパーティ三昧のある日、ウィリーが私に、「子供の頃の話を書いてみたら?」と言ってきました。
そこで、私は「クローディーヌ日記」を書き始めます。

私の名前はクローディーヌ…
から始まった物語は、母と過ごした子供時代と学校生活をもとに、ちょっと蓮っ葉な、女の子の秘密のようなことを加えました。
クローディーヌは私のヒロインでした。

ところが初稿を読んだウィリーは「ダメだね、全然ダメだ。」と言って、私の名前の書いてある1ページ目を破り捨て、残りの原稿を持ち、帽子をかぶって出て行ったのです。

がっかりした私は書くのをやめてしまいます。

でもその時が「作家コレット」の誕生でした。

(学校のクローディーヌ初版本)

なんと、ウィリーはその足で出版社へ行き、「クローディーヌ日記 - ウィリー作」として原稿を渡していたのです。
それは爆発的に売れました。
1902年には劇場化され、警察からは「道徳に欠ける」いかがわしい本とされてしまいますが、20世紀を迎えて、パリは万博で沸き、女性には、コルセットからの解放、ショートカット、スポーツと、それまで無かった自由が訪れました。
私も膝まであった髪をカットし、ボブスタイルにしました。

(ブーローニュの森を散策するコレットとウィリー)

でも、まだ私は目覚めていませんでした。
ウィリーは「クローディーヌ日記」の続きを書くように言い、「クローディーヌの結婚」「クローディーヌの冒険」などを出版、でも作者はウィリーのままだったのです。
その上クローディーヌにまつわる小物販売が始まり、クローディーヌカラー、リボン、香水…と爆発的に売れて、たくさんのお金が入ってきました。

21世紀の今でも、白い丸襟のことを「コル・クローディーヌ  – クローディーヌの襟」というくらい流行ったのです。

(クローディーヌカラーのコレットと愛犬トビィを抱くウィリー)

ウィリーは広告の天才でした。
小説だけでなく、私にクローディーヌの扮装をさせ写真を撮って、プロマイドを売り出したのです。
しかし、全てウィリーの名前で。
売れれば売れるほど、私が書いているのに… と悲観でした。

(33歳、離婚直前のコレット)

ウィリーは派手に遊び、私は利用されるだけ… もう我慢がなりません。

「離婚」です。

でも、これからどうやって生きていこう…

続きは  ◁ n.77 初めて尽くし コレット 2  へ

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n.75 装いとジュエリー メアリー・スチュアート 2 ▷

◯ ベルエポック期_19世紀末-20世紀初期_フランス
ベルエポックとは、フランス語で「美しき良き時代」の意味で、19世紀末から1910年代のパリを中心に花開いた文化芸術の時代を指す。
19世紀中頃のナポレオン3世皇帝時代から発展した産業革命によって、経済が隆盛し、パリへは世界中から富豪が集まった。その注文に答えるように芸術家、建築家、宝飾家、作家、研究者などが各分野で活躍の場を与えられ、都市文化が栄えるようになった時代。
1914年に第一次世界大戦が始まると沈静するが、その後の1920年代には復活し「レ・ザネ・フォル」狂乱の時代と言われるモダンな時代が始まり、「アール・デコ」スタイルに変化していく。

◯ 20世紀前半
1920_1930_1940
1871年にナポレオン3世皇帝時代が終わったフランスは、めまぐるしい変化が起こる。はじめは君主制を続ける意見が多かったが、19世紀のブルボン王朝復古時代のシャルル10世王の孫アンリ・ダルトワが1883年に逝去したため、王政復古は消え、政治的には共和政へと移る。
ナポレオン3世時代の産業革命と工業、商業の繁栄の遺産を引き継いだ好景気で、1900年のパリ万博と中産階級が経済を支え、成熟した文化を作り、19世紀末から1910年代中頃まで「ベル・エポック」と呼ぶ華やかな時代となる。世界中から富豪や王侯貴族の末裔やアーティストが集まり、パリはインターナショナルシティとして、芸術の都と呼ばれるようになった。また19世紀中頃からの近代文明によって科学技術、医学、工学に大きな発展があった。ヨーロッパ中から集まった多くの企業家や研究者が産業を作り、ピエールとマリー・キュリー夫妻の放射線研究によるノーベル賞受賞、パスツールによる微生物菌の研究による1895年のレーウェンフックメダル受賞、そしてパリのパスツール研究所の創設など、学者の発見や発明があり、学問でも世界的な貢献をした。
1914年には第一次世界大戦があり、国民の多くを失う悲惨な戦争期間となったがドイツに勝ち、戦後復興で1918~1939年は大変華やかなインターナショナル時代となり、美術では「アール・デコ様式」が始まり、1930年代に熟した。
1939年にドイツのヒトラーがポーランドに侵攻し、イギリスとフランスが戦争を開始した。

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