アンティークジュエリー物語n.77
初めて尽くし
コレット 2
前回の「 N.76 コレット 1 – 作家誕生 」からの続きです。
さて、一人になったコレットは、これからどうなっていくのでしょうか…
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放浪の日々
ウィリーと離婚。
牢屋に入れられるぞ、と脅されましたが、もう我慢がなりませんでした。
33歳、これからどうやって生きていこう…
この頃、女性一人で手っ取り早くお金を稼ぐには… 歌手、女優、ダンサーしかありませんでした。
そこで、女優にしました。
1906年、パリは優雅で豊かな女性たちがサロンを開き、時には女性だけのパーティもありました。そんなパーティへは男装で行ったものです。
そこで知り合ったのが私の親友でのちの恋人「ミッシー」、彼女は自称ナポレオン3世皇帝の姪という侯爵夫人でした。また、大金持ちのアメリカ人、ナタリー・バイエとも知り合いました。
親しくなったバイエが資金を出してくれ、私は女優デビューしました。
ウィリーから離れた私は、
「自分がしたいことだけをする」と宣言したのです。
オリエンタルなパントマイムで人気になり、ダンス、演劇、肉体と精神の自由…を謳歌し、舞台で初めて乳房を見せ、女性にキスをしました。
瞬く間に大スキャンダルに…
パリでは警察沙汰になったので、私は地方へ巡業に出ることにしました。
リヨン、ニース、オステンド…この時期の私はまさに「放浪者」。
ホテル代を値切るような厳しい生活でした。
そんな暮らしの中で、私はもう一度なにかを書いてみたくなったのです。
再出発
まずは、放浪の女優の私にしか書けない「ミュージックホールの裏話」を本名「シドニー・ガブリエル・コレット」の名前で出版しました。華やかな舞台裏の、人生の悲しみ、貧しさ、といった、人の見ない部分を書いたのです。
この時、私の人生はウィリーのものではなく、やっと私自身のものになったのを感じました。
離婚、ヌード、女優、そして作家…タブーの無い自由な女としての再出発でした。
「頭で考えるのではなく、体で考えよう。体や肌は、頭よりずっと賢くて、なんでも感じて判るのだから。」と思っていました。
自己愛が強く、感覚的で、自由を愛した私でした。
新たな出会い
こんなふうに新しいキャリアの「作家」がはじまり、まだミッシーと一緒にいた頃に、転機が訪れます。
それは、アンリ・ド ・ジュヴネルとの出会いでした。
アンリ35歳、私38歳、
男爵で、新聞社「ル・マタン」の経営者で主筆でした。
アンリは私なしでは生きられないと言い、私たちは恋人になりました。
1909年、飛行機が初めて飛んで、私も乗機し、普通の人が見ない空からの世界を見ました。
当時パリでは「飛行機ダンス」という、腕を翼のように広げて踊るのが流行っていました。
1912年、母シドが死んでしまいました。
私は人生は生きているうちが花だと感じ、妊娠していることが分かって、大急ぎでアンリと結婚しました。
男爵夫人という称号はなかなか良いものでしたよ。
突然、社交界の扉が開いて、私はパリで「バロンヌ - 男爵夫人」として、ソワレに忙しく、生まれた娘は、田舎の家で乳母が育てました。
1914年、第一次世界大戦が始まり、アンリはドイツ戦線へ、私はパリに一人でした。
アンリに会いたくなった私は、危険を犯してベルリンへ。
そこで見たのは、夫や息子、婚約者を亡くした女たちが、工場や商店で働いている姿でした。
戦争が終わって、世界が変わりました。
想像が現実に
1920年代はじめ、私は「シェリ」を書き、単に「コレット」とだけ署名しました。
イギリスではヴァージニア・ウルフやエミリー・ディキンソンという女性の作家が活躍した時代、私はフランスの作家コレットでした。
「シェリ」は成熟した女性と若者の恋愛小説でしたが、時は20世紀はじめ、たとえ小説でも、世間に許される内容ではありませんでした。
ところが、なんと小説が事実となってしまったのです、書いたことが本当に起こるとは…!
女性は私47歳、若者は夫アンリの連子で16歳のベルトランです。
まるで今どきのフランス大統領みたいな話ですよね。
私とベルトランの秘密の恋は5年続いたのち、アンリとは離婚、ベルトランは去って行きました。その後、ベルトランは13世紀にさかのぼるジュヴネル・デ・ウルサン家の当主として、パリの邸宅で文筆家として、1987年まで生きました。
多感な青年期に私と過ごしたことは、彼の成熟に大きな影響を与えたのではないでしょうか。
3度目の結婚
ベルトランが去った後、17歳年下の実業家で作家のモーリス・グドケと出会い結婚、それが最後の愛になりました。
1929年、私は化粧品業界へ、
コレットの名で売り出しましたが、私の好きな濃いマキアージュはあっという間に流行遅れになり、やめてしまいました。
でも、私はしたいことをしたのです。
フランスの作家として
人生の最後は、作家としての成功が待っていました。
フランスで最も権威ある文学賞のゴングール・アカデミーで初の女性総裁となり、レジオンドヌール勲章を受け、かつての王宮のパレ・ロワイヤルの、2階にあるアパルトマンで、猫や犬や夫モーリスと過ごしました。
この頃には、母シドと過ごした子供時代へ想いを馳せることが多くなりました。
幸せだった子供時代、猫や犬、馬、森、川、四季の植物、めくるめく美しい自然の中で、女王でいた私。
1945年の最後の作品「ジジ」は、そんな頃を思い出して書いた少女の話です。
ジジ役はオードリー(ヘップバーン)がブロードウエーで可憐に演じてくれました。
女優になりたてだったオードリーを、私が見出したのですよ。
1954年、私はフランスで2人目の国葬となった女性になりました。
でも、奔放すぎた私の人生は、カトリック教会の拒否に合うと考え、教会葬は望みませんでした。
今はパリの北、ペール・ラシェーズ墓地で眠っています。
寂しいかですって? いえ全然。
なぜなら今も世界中の人が、私の作品を読んでくれていますから。
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○ シドニー=ガブリエル・コレット_Sidonie Gabrielle Colette
フランスの作家、舞台俳優、ジャーナリスト
1873年1月28日サン・ソーヴュール生 – 1954年8月3日パリ没
ベルギー王立フランス語文学アカデミー会員、フィガロ紙ジャーナリスト、女性で2人目のアカデミー・ゴンクール(フランス文学団体)会員、1949-1954年に女性初のゴンクール総裁を務める。
美食家のうえ料理はプロ級で、後世には料理、インテリアやテーブルコーディネイトの出版がある。フレンチブルドックとシャルトリュー猫を愛し、夫が「君が猫と一緒にいると僕の入る隙がない」と嘆き、嫉妬の対象になるほどであった。
主作品には、クローディーヌ関連著作、動物の対話、さすらいの女、シェリ、青い麦、ジジ、牝猫、コレット著作集全12巻(二見書房)などがあり、1954年に、女性で2人目のフランス国葬となる。
父:ジュール=ジョゼフ・コレット大尉、戦争で右膝下を失い、レジオンドヌール騎士勲章を受けた傷痍軍人。教養高い人物で文筆家に憧れ、娘に徹底したフランス語の高等教育を授けた。 1829 – 1905年
母:シドニー・ランドィ 1835 – 1912年
配偶者:アンリ・ゴーティエ=ヴィラール(通名ウィリー)、アンリ・ド・ジュヴナル、モーリス・グドケ
子供:コレット=ルネ・ド ・ジュヴナル 1913 – 1981年